駅のホームのベンチ。
座った瞬間に「あ、もう立ち上がりたくない」と体が拒否をする。
弾性ストッキングを突き破りそうなくらいパンパンにむくんだ足の痛みより、心の中にどろりと溜まった自己嫌悪の方が、ずっと重い。
「今日のあの対応、もっと優しく言えなかったのかな」
「忙しいって顔に出しちゃったな」
かつての私は、急性期病棟で文字通り自分を「摩耗」させて働いていました。
でも、ある日ふと気づいたんです。
「私自身がボロボロなのに、どうやって誰かに優しさを分け与えられるんだろう?」
自分が幸せじゃない、自分の家族さえ大切にできていない。
そんな枯れ果てた状態では、良い看護なんて1ミリもできないのだと、痛いほど思い知らされた出来事がありました。
1. 「昼休憩」という名の、ただの記録時間

急性期病棟の1日は、戦場です。
朝、受け持ち患者さんの情報収集をした瞬間から、1分1秒の狂いも許されないタスクの山が始まります。
一番異常だったのは、本来「休息」であるはずの昼休憩です。
実際には、おにぎりを口に押し込みながら、モニターに映る電子カルテと格闘する時間。
「休憩時間を使わないと、今日の記録が終わらない」 そんな状況が当たり前になり、私の心から「余白」という文字が消えていきました。
喉がカラカラでも水を飲む暇さえなく、トイレを限界まで我慢して走り回る。
そんな極限状態では、患者さんのナースコールが鳴るたびに「あ、また作業が止まる」と一瞬でも思ってしまう自分。
そんな自分の冷たさに、一番絶望していたのは私自身でした。
2. 家族にさえ優しくなれない、空っぽの自分
心の余裕のなさは、一番大切な家族にまで牙を向きました。
ヘトヘトになって帰宅し、ようやく座れると思った瞬間に聞こえる、子どもの「ねえ、遊んで!」という声。
本来なら愛おしいはずのその声が、仕事終わりの疲弊した頭には「さらなる業務」のように聞こえてしまったのです。
つい、きつい口調で「後にして!」と言ってしまう。 泣き顔を見るたびに、また自分を責める。
仕事でボロボロになり、家庭でもトゲトゲしている。
「良い看護がしたい」と思ってナースになったはずなのに、気づけば誰に対しても優しくなれない、空っぽの自分がそこにいました。
3. 訪問看護で知った「幸せの循環」
そんな限界を超えた私が、勇気を出して飛び込んだのが訪問看護の世界でした。
訪問看護には、急性期のような「数分単位のタスク」に追われる感覚はありません。
一対一で、その方の生活の場で、じっくりと向き合う時間があります。
そして何より、「しっかり休んで、自分の時間を大切にする」ことが当たり前とされる環境に驚きました。
自分がしっかり食べて、しっかり寝て、家族と笑い合える時間を持つ。
そうして自分の「心のコップ」が満たされると、不思議なことに、患者さんへの接し方が劇的に変わりました。
- 患者さんの何気ない一言の裏にある不安に、気づけるようになった。
- 忙しさを理由にせず、最期までその人の「生」に寄り添えるようになった。
「良いケア」の源泉は、高度な技術やスピードではなく、看護師自身の心の健やかさにあるのだと、身をもって知ったのです。
4. あなたの幸せを、後回しにしないで

今、急性期の荒波の中で「もう優しくなれない」と泣いているあなたへ。
それはあなたが冷たいからではなく、単に「余裕を奪われているだけ」です。
看護師である前に、あなたは一人の人間であり、誰かの大切な家族です。
あなたが幸せでいることは、巡り巡って患者さんのためになります。
「今の環境を変えること」は、決して責任放棄ではありません。
自分を大切にできる場所を選ぶことは、より良い看護を提供するための、最も誠実な一歩だと私は信じています。

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